教育長との懇談2022

 6月28日火曜日、16:30~17:10(予定では~17:00でしたが10分延長)群馬県庁24階の教育長室にて、教育長との懇談を行いました。
 参加者は県教委側が、平田教育長、角田次長(総務課)、小暮次長(学校人事課)の3名。高教組側が、澁谷執行委員長、水田副執行委員長、萩原書記長の3名でした。
 以下、懇談の概要を報告します。

澁谷委員長
 まず、新学期開始時の教職員の欠員数を確認したい。(同席した小暮次長より3名との報告)
 全国的に教職員の欠員が問題になっているが、群馬でも欠員が生じている。不登校等で生徒が学校から離れ、病気等が原因の休職および退職で教職員が学校を離れ、欠員が生じても人が見つからず補充が困難である上に、採用試験の受験者数も減ってきている。学校から人がどんどん離れている。これは学校の魅力が失われているという見方もできるが、この原因をしっかり考えて対処してほしい。学校では生徒同士のいじめがあり、職員同士のハラスメントもある。ハラスメントに対しては、今はモグラ叩き的な対処を一生懸命やってもらっているが、それが限界に来ていることは、やっている事務局の方も感じているはず。もっと根本的な対処が必要。魅力が失われていることやいじめ、ハラスメントが起こってしまうことの根には同じ問題があるように思えるが、教育長はどう考えるか。

教育長
 澁谷先生はどう考えますか。

澁谷委員長
 職員も生徒も「評価、評価」で息苦しさを感じている。この息苦しさが学校の魅力を失わせている大きな原因の一つと考える。(※1)学校がどんどん楽しくなくなってきている。
 また、新しい指導要領では観点別評価が導入されたが、3つの観点に分けてそれぞれに評価を出すことにどのような意味(メリット)があるのか。このことによる教員の負担感は大きく、多忙化解消どころか多忙化が増大する。また、分析的に評価し、それで終わりにすることは、科学の世界では場合によってはありうるが、人間を評価するときにこれが有効かどうか。「木を見て森を見ない」という譬えがあるが、結局こんな評価の仕方で、ひとりの人間を総合的に捉えられるとは思えない。
 分析的に、ということで言えば、国語を文学国語と論理国語に分けるというのも全く意味のわからないことだ。そもそも国語という教科をそのように分ることにどのようなメリットがあるのか。また分けることができるのかどうか。論理国語の教科書に漱石の作品が掲載できるかどうかが問題になったが、問題になるは当然でもあり、同時に問題にして議論すること自体が時間のムダでもある。

水田副委員長
 観点別評価では特に「主体的に学習に取り組む態度」の評価がわかりにくい。

教育長
 主体性は生徒の活動を見て評価できませんか。

澁谷委員長
 例えば協働的な学習を行う中で主体性を評価することはできるかもしれないが、今は新型コロナでそのような学習がやりづらくなっている。中には主体性を課題の提出状況で測ろうとしている人もいる。しかし与えられた課題をやることが主体的なのかどうか。
 教育委員会も上から与えられたものを無批判に受け入れて現場に下ろすのではなく、きちんと内容を検討してもらいたい。科学の理論でも、新しい理論が出れば必ずそれが正しいか厳しく検討されるはずだ。学習指導要領については、検討した上で「必要なら柔軟に対処して良い」ということを誰かが言ってほしい。文科省の事務次官まで行って退職した前川喜平さんも指導要領には柔軟に対処して良いと言っていた。

教育長
 前川さんは、指導要領は最低基準だと言っていましたね。(※2)

水田副委員長
 私からは特別教室のエアコンの設置についてお願いしたい。例えば音楽の授業をエアコンのない音楽室で行うのはあり得ないことだ。

澁谷委員長
 本校の職員室のエアコンも故障し、ガスを補充しながらなんとか動かしているが、動かなくなったことを考えると恐ろしい。エアコンの整備は早急に対応すべき課題。

萩原書記長
 教育長になって群馬の学校の様子を見てどうお感じになったか。

教育長
 生徒がとても生き生きとしている。最近では工業高校の様子を見たが、生徒たちはとても楽しそうにしていた。それを支えてくださっている教職員の皆さんには感謝の気持ちしかない。

澁谷委員長
 そのように見ていただいたのはとてもありがたい。生徒たちは本当に素晴らしい。だからこそ私たちは現場を離れずにこうやって仕事をしている。けれどもその一方に、学校を離れていく生徒や職員がいることも確かだ。私たちはそれが残念で仕方ない。こういう人たちにもぜひ目を向けて対処してほしい。「誰ひとり取り残さない」だ。ぜひお願いしたい。時間なのでこれで終わりにする。時間をいただいたことに感謝する。

教育長
 今日はありがとうございました。皆さんの熱意はよくわかりました。


【 注 】
(※1)
 教員評価を導入した時の担当課長だった前川喜平氏も「私も国家公務員ですから、部下の評価もしていました。でも、一人一人個性が違うし、評価なんて簡単にはできませんから。前回この人をいい評価にしたから今回はこれくらいにしておこうとか、かなりいい加減な評価をしいていました(笑)。たしかに誰が見ても優秀な人と、誰が見てもちょっと問題がある人はわかりやすいのですが、それ以外の膨大な中間層については、ほとんど評価不可能だと思います。」(中略)「本来、子どもたちと向き合うという仕事に割くべきエネルギーが評価をするために使われるという、本末転倒なことが全国で起きている。評価をすれば競争が起きて、競争が起きれば成果が上がる、という考え方が浸透してきた結果ですね。これは民間企業で行われていた成果主義を、公務の部門に取り入れたと言われていますが、今はもう民間企業のほうが成果主義をやめると言っています。成果主義では成果が上がらないことがわかったから。それなのに、学校や大学や役所ではそれをまだやっている。それが、現場が疲弊する一つの原因になっているんじゃないでしょうか。」(2022/4/27 内田 樹寺脇 研前川喜平「教育鼎談」 P159)と述べています。

(※2)
 「学習指導要領は最低基準」と明確に発言しているのは前川氏の先輩で、「ゆとり教育」の推進者であった寺脇研氏です(前掲書P215)。前川氏は(※1)での発言も含め、法や指導要領に対して、余裕を持った「運用」が必要であるとしばしば述べています。しかし、現在の管理的な立場にいる方々にとっていちばん苦手でわかりづらいのがこの「運用」なのではないでしょうか。
 「学習指導要領は最低基準」という発言は場合によっては誤解を生む発言です。「最低基準なのだからこの上にもっと積み重ねろ」とも読めます。しかし寺脇氏はこの後に「その基準をもっと下げていいと思うんですよ」と続けています。つまり、学習指導要領の縛りをもっと緩くすべきということです。「運用」の苦手な役人には縛りの緩い法令を出さないと身動きが取れなくなるという文脈です。

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